【書籍】科学と神秘のあいだ

著者の菊池誠氏は「ニセ科学」の批判でよく見かける科学者の先生。 そんな先生が、「科学的なものの見かた」や「考えかた」について書いたエッセイだ。

この本は、ニセ科学に対する批判とか、科学的な知識について書かれているわけじゃない。科学的な難しい言葉とか記述とかはでてこないので、やわらかくて読みやすい内容になっています。

内容はというと、著者の好きなSFや映画や音楽、それに自身の体験談などを交えて、身の回りに無数に存在する「奇跡」が綴られている。 科学であらゆることは説明できないし、できるようになったとしても、「神秘」は消えてなくなってしまうわけでもない。 非日常的でステレオタイプな科学者のイメージとはまったく違った、とても人間くさくて日常的な視点での科学とのつき合いかたが書かれている。

ちなみに、表紙のイラストがかわいかったので、帯はとってから撮影しました。

びっくりしてもいいじゃない

著者は学生の頃、UFOを見たのだそうだ。といっても、よく見れば凧だったのだけれど。 そのときの気持ちを「非日常から日常に戻された」と語っている。

そういえばちょっと前、TogetterでUFO関連の記事があったけど、コメント欄ではLED付きゲイラカイトだとつっこまれていた。 そのとき写真を撮ってアップした人々も同じ気持ちだったのかもしれない。 少なくともボクは、画像を見ているときのちょっとした高揚感は、スクロールしてコメントが目に入ったときに退いていったのだと思う。 でも、UFOがただの凧だとわかったとしても、そのときびっくりした自分は、たしかにそこにいたのだ。

幽霊なんていやしない、と言ったところで、暗い夜道に白いモヤモヤが現れたら、ぎょっとしてしまうかもしれない。 よく見てみると、ただのビニール袋なのかもしれないけど、そのとき「ぎょっとした」事実は変えることができないんだ。 あとから事実を知ってガッカリしても、過去を変えることはできないんだ。

たとえば、金縛りとか。ボクも金縛りになったことはあるけど、黒い影のようなものが身体の上に乗っているように見えて、すごく怖かったのを覚えている。 金縛りが人間の身体に起こる当然の現象だと知っていても、脳が怖いイメージを見せるものだと知っていても、そのとき「怖い」と思った事実は否定できない。 だって怖かったんだもの。事実なのだから、否定のしようがない。

こんなふうに、現象として知っていることと、そのとき恐怖を感じた事実は、矛盾しているようで同居してしまう。 でもそれは、悪いことでも良いことでもなくて、そういうものなのだ、というのはそのとおりだと思う。

それはたしかに不合理といえば不合理なのだけど、たぶん自分でどうにかしようとしたって、どうにかできるようなたぐいじゃない。だから、僕たちは「人間というのはそういうものなんだなあ」と考えて、それに折り合いをつけていかなくちゃならないんだ。

月面着陸のリアリティ

アポロ計画の月面着陸はウソっぱちだとする捏造論がある。 著者は、アポロが月面着陸をする瞬間をTV越しに見守った世代なのだそうだ。だから、月面着陸はまぎれもないリアルな体験として焼きついている。 その時代を体験していない生徒から、「アポロは本当に月へ行ったのか」と聞かれることがあるのだという。 自分にとってはリアルな体験でも、体験していない人にとっては、リアリティに欠けているように感じられてしまうことがあるのだ。

著者はリアリティという言葉を、リアルだと感じたその「感じ」、「感じの記憶」だとしたうえで、次のように書いている。

感じてしまったものをいまさら感じなかったことにはできない。もしかしたら、それが実際には間違いだったのだとしても、「感じた」という事実そのものが間違いだったわけではなくて、それはやっぱり事実なんだ。

月面着陸はボクにとってもリアルな体験じゃない。といっても捏造論なんて信じちゃいないけど。 キュリオシティが火星に着陸したとき、NASAの管制室が緊張から解き放たれ、沸き立つ場面をUstreamでみている。 何十年かして、あれはウソだったんじゃないか?なんていわれても、やっぱり困ると思う。

説得力と納得力

「納得力」という言葉は、著者の友人から出た言葉なのだそうです。

そのとき、僕たちは荒唐無稽な冗談を言い合って笑っていた。すると、こんな荒唐無稽な話を理解して笑えるのは、その話に説得力があるからじゃなくて、自分たちに納得力があるからだ、というようなことを彼が言ったのだった。納得力だなんてなかなか説得力のある言葉で、これにはこちらも納得力を発揮して、説得力と納得力でその場は大納得となった。

リテラシーなんていう言葉をあっちこっちで見かけるようになったけど、最初はなんだかピンとこない言葉だった。 それに比べて、この「納得力」という言葉はすごくイメージが掴みやすい。 上記のエピソードは冗談を言い合う場だから、どんなに納得力を発揮してもいいのだけれど、ときとして、この納得力が害を及ぼすことがある。

科学を装った科学ではないもの、ニセ科学に騙されているつもりはないのだけれど、騙されてしまう可能性は誰にだって存在する。 納得力が顔を出す場面として、次のようなことが書いてあったので、ちょっとビクッとなってしまった。

たぶん、「わかるわかる」は、本当の意味で内容を理解しているのじゃなくて、もっとぼんやりした「共感」を表現しているのだろう。頭で理解するというよりは、なんだかよくわからないけど教官できたから、その気持ちを相手に伝えたくて、「わかるわかる」って口にしちゃうのだと思う。「わかるわかる」のほかにも、「あるある」や「やっぱり」なんていう言葉も同じかもしれない。

ソーシャルメディアやらなんやらが流行ったのは、たぶん共感を求めている人が多いからなんだと思ってる。 共感を求める言葉と共感を伝える言葉の溢れかえるネットワークでは、暴走してしまうほどの「納得力」が流れているのかもしれない。

科学者の想像力

科学者の頭は固いわけじゃなく、むしろそこらのトンデモ科学者と比べたら、もっととんでもないんだというくだりには、ちょっと吹き出してしまった。

UFOが飛んでたからって、それが宇宙人の乗り物だなんて想像力が足りん、というのだ。 未来人の乗り物かもしれないし、古代の翼竜の生き残りかもしれなければ、空飛ぶスパゲティモンスターかもしれないし、マイクロブラックホールなのかもしれない、とか。 超能力実験の結果が、実は高度な知性体によるコンピューター・シミュレーションかもしれない、とか。

後者は最近そんなことをいってる方がいましたよね

SFと科学と

著者はSFが好きなようで、本書の中でもたくさんSFの話が登場する。 SFに登場する科学は、現実の科学とは違うけど、なんら問題にはならない。だってフィクションだもの。 どんなに無茶な理屈でも、光速を超えた宇宙船でも、ワープでもタイムトラベルでもウェルカムだ。 いかにそれらしい理屈で説得力を持たせて読者をだませるか、ってところにミソがあるのだろう。

でも、これを現実でやっちゃうとマズイ。 ここでは「天皇のY染色体説」とか「インテリジェント・デザイン説」とか、物語と科学の境界線を見誤った人たちの例があげられている。 主張している人たちは科学に説得力を求めたのだろうけど、現実は物語ではないので、事実は事実として受け止めなくちゃならない。

このことが書かれている節のタイトルが「物語だけが光速を突破する」なんだけど、その理由について触れられているくだりが心に響いた。

ところで、この節のタイトルは、山田正紀のSF小説『エイダ』(早川書房)の中に出てくるセリフからとった。物理的な世界に住む僕たちにとって光速度は速度の限界で、それはどんな技術を使っても決して超えられない。もし光速度を超えられるとすれば、それは物語のだけなんだ。
物語だけが光速を突破する。山田正紀が書いたこの言葉は、科学と物語の関係をあざやかに表現している。物語というものの持つ力を高らかに宣言したすばらしい言葉じゃないか。そう、これが物語作者の心意気だ。

なんともカッコイイじゃないですか。

線を引くということ

著者は大学の先生だから、試験の採点をすることも多いという。 たとえば、合格点が60点だとして、59点の生徒は60点の生徒と比べて何か違うのか、といわれたら、本質的に差があるあけじゃない。 でもそんなことを言い出したら、58点は?55点は?ということでキリがないので、ギリギリの点数を取るのがいかんのだよと、粛々と採点をするのだそうだ。

線を引くっていうのは難しい。でも、線を引かなくちゃいけないことが多々ある。 たとえば、賞味期限をどこに設定するのか。 賞味期限が切れたからといって、その瞬間に何が起きるわけでもないんだけど、でも線引きをしないわけにもいかない。 安全と危険の間には、白黒ハッキリさせられるような線があるわけじゃないので、結局は「程度」の問題になるわけだ。

ひとつはっきり言えるのは、「ゼロ・リスク」という考え方は幻想だということ。安全と危険のあいだを一本の線で結んでみよう。それを安全のほうへとたどっていく。どこまで行っても、端には到達できない。だから、どこかで「このへんでいいことにしよう」と決めるしかないんだ。

どんなに安全性を考慮しても、落ちない飛行機はできないし、事故らない原発もできないのだろう。 でも、「この程度なら大丈夫だろう」という線引きはしなくちゃいけないことなのだ。

菊池 誠
筑摩書房
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