TVアニメ版『放課後のプレアデス』を全話視聴したので感想とか考察とか。萌えキャラ系魔法少女アニメかと思っていたら、実は宇宙SFだったり平行世界だったりしてガイナックスの本気をみました。失礼ながらまったくのノーマークだったのですが、諸手をあげて今期最高だぜ!とオススメできるストライクな作品でした。
※ネタバレを含むので未視聴の人は観ましょう。差し当たり、3話まで見れば本作のパワーが理解できると思います。
公式サイト:放課後のプレアデス / SUBARU x GAINAX Animation Project
放課後のプレアデス [最新話無料] – ニコニコチャンネル:アニメ
『放課後のプレアデス』はスバルとガイナックスのコラボレーションによって制作されたアニメです。もとはスバルのプロモーション企画だったのですが、両社で煮詰めた結果「別に自動車でなくてもかまわない」ということになったそうです。2011年にWebアニメ版がYouTubeにて配信され、今年2015年にはTVアニメになって帰ってきました。
パッと見は魔法少女モノのファンシーな印象ですが、空飛ぶ杖として使われる「ドライブシャフト」はエンジン音が鳴るなど、自動車要素も入っています。とはいえ、特定の製品のプロモーションといった作りではありません。(初期の構想でプロモーション予定だったEyeSightという衝突防止機構っぽい描写は第6話にちょっとだけありますけど) あくまで企業としてのスバルの良さを表現することが目的なのだそうです。正直、本作を観て企業のプロモーションだと思う人っていないんじゃないでしょうか。
ともあれ、ガイナックスはスバルとのコラボなのに、自動車を描かずに魔法少女を描いているわけですよ。それもファンシーでかわいいヤツを。「何やってんの?」って思うじゃないですか。自動車要素は申し訳程度で、かわいい女の子たちがキャッキャウフフしてるだけなんて、そんなんでいいのか?って思ってしまうじゃないですか。でも、違ったんです。全然違った。そんなんじゃないんですよ。
SFなんです、”SF”。それはもう見事にSF。ファンシーな魔法少女モノには違いありませんけど、れっきとしたSF作品になっているんですよ。第1話から宇宙人やパラレルワールドを匂わせる展開がありましたが、第2話まではドライブシャフトで気持ちよく空を飛ぶアニメだと思っていました。で、一気に化けるのが第3話。空なんかにとどまっていなかったんですよ、このアニメ。
時空の波サーフしていく~宇宙SFな舞台設定
最初のクライマックスとなる第3話では、魔法少女たちに「大概の物理法則は通用しない」ことが判明するところから、舞台のスケールが深海から成層圏まで一気に拡大していきます。「3話にして水着回かよ!」と思っていたら宇宙までぶっ飛んでいくのですから仰天です。その後の失速が心配になるほどの盛り上がりでしたが、第4話からはさらにスケールアップして、月から土星、太陽から外宇宙までなんでもござれ。失速どころかむしろ加速していきました。
もちろん、ただ宇宙に出るだけではありません。近年の宇宙論の考証がキッチリ反映されているのですよね。ダークエネルギーとか空間の膨張速度が光速を超えているとか、宇宙好きにはビビッとくるワードの連続。映像としての描写も力が入っていて、たとえば、亜光速で飛行中は時間の流れが緩やかになるため、周囲の見え方が変わることも映像で表現されていますし、事象の地平線だって『インターステラー』に負けじと映像化されています。こんなのワクワクしないはずがない。
宇宙論だけでなく、量子力学に通じそうなところもありますね。多世界解釈な世界観とか、誰かが見るまで姿が確定しないプレアデス星人とか。そもそも、魔法少女たちの力は通称・プレアデス星人なる宇宙人から与えられたものであり、れっきとした科学の力なのですが、その技術は量子力学の先にありそうなフィクションになっているのです。
なんにもないなら なんにでもなれるはず~可能性の物語
進歩した科学は魔法と区別がつかない、なんて言葉もありますが、『放課後のプレアデス』における”魔法”はまさにコレ。「大概の物理法則は通用しない」といっても、太陽のプロミネンスの下ですら「ちょっと熱い」程度で済むなんてめちゃくちゃにみえますが、プレアデス星人は、確率さえも自在に操り、数ある可能性から任意の1つを自由に選択できるほどの技術をもっている人たちなのです。もうね、次元が違うんですよ。
可能性を自在に選択する、とは、無数に枝分かれした平行世界の中から1つを選び取ることができる、ということです。この技術を使って、もっとも可能性のある5人の少女たちを選ぶのですが、選ばれた5人は、いずれも何者でもない少女たち。”魔法”の力の源は可能性そのものであるため、より多くの可能性を秘めた何者でもない少女たちが適任であるわけです。
本作のストーリーで描かれているテーマの1つが”可能性”です。何者でもない、というと、なんだか否定的なイメージかもしれません。作中でも、少女たちは何者でもなく、何者にもなれない自分たちを否定的に捉えてしまうことがありました。しかし、『放課後のプレアデス』ではこれを否定しないのですよね。むしろ、無限の可能性として全力で肯定しているのです。といっても、何者でもないこと自体を肯定しているわけではありません。
魔法使いでの活動は楽しいから、ずっとそのままでいたいと願うこともありましたが、それでは問題は解決しません。それどころか、魔法の力を失うことにもなってしまいます。何者でもないことによる可能性は、何者かになろうとするからこそ生まれるもの。可能性は未来へ向けられるものであって、現状にとどまろうとすれば失われてしまうし、過去に向けられれば”呪い”になってしまう。作中で肯定されているのは、何者かになろうと可能性に挑戦すること、なんですよね。そして、1つの何者かにならなきゃいけないわけでもない。だから、挑戦し続けることに最大の肯定が贈られているのです。
可能性に挑戦し続けることって、ひょっとするとスバルとガイナックスの企業理念を表現したものなのかもしれませんね。そもそも、プロモーションのはずなのに自動車が登場しなくても構わないだなんて、スバルにとってはあまりにも大きな挑戦ですし、ガイナックスとしても、その可能性に賭ける姿勢を肯定せずになんとする、といった気概で応えたのかもしれません。勝手な憶測ですけれども。
ともあれ、”魔法”の力ですべてを解決した彼女たちには、すべての可能性から何者にでもなれる選択肢を与えられます。どんな世界でどんな者にでもなれる、まさに無限の可能性を手にしたのですが、彼女たちが選んだのは他でもない、”自分自身”でした。
わたしよ わたしになれ!~最大の自己肯定
何者にでもなれるし、どこからでもやり直せる無限の選択肢を手にしたのに、何者でもない元の自分を選ぶというのは、最大の自己肯定でしょう。だって、何にでもなれるのに自分を選ぶんですよ? これ以上の自己肯定はありません。そしてその自己肯定は、決して自分だけによって生み出されたものではないのです。
作中では、何者でもない自分への自己否定を、友人や家族といった他者からは肯定されることで、やがて自分でも自己を肯定できるようになっていく展開が何度も描かれています。自分を認めてくれる誰かがいるから、自分で自分のことも認められる。自分を肯定できれば他者を認めることもできる。肯定の連鎖ともいうべきやさしい世界なんですよね。だからこそ、肯定のしようがないみなと君の現実はつらく刺さるし、それでも懸命に肯定しようとするすばるの奮闘も心に刺さるわけです。あれほど厳しい現実でも、他者からの肯定があれば可能性を紡ぐことができる…なんて純粋で美しい連鎖なのでしょうか。
自己の肯定も他者の肯定も、可能性を肯定することに他なりません。肯定の連鎖の中で紡がれた可能性はやがて大きな力となり、奇跡をもたらしたのです。これこそがまさに”魔法”というものでしょう。宇宙人の高度な科学力により、可能性を力に変える魔法を与えられていましたが、そんな技術などなくとも、彼女たちは十分に魔法使いだったのです。
出会いにはじまる物語は別れに終わるもの。平行世界から集めれた5人の少女たちは元の世界へと戻っていきます。宇宙の理を外れた魔法使いとしての記憶は失われるでしょうけど、思い出が消えてなくなるわけではありません。すばるの目に映る流星雨は、かつて魔法使いになるキッカケとなった宇宙船の欠片ではないのですが、魔法に等しい奇跡を起こしたのですから、彼女たちの未来もまた、可能性の輝きにあふれた世界になることでしょう。
あまりにも美しく終幕した『放課後のプレアデス』は、切なくて心地よい余韻を残したまま、ボクの心にぽっかりと穴をあけていってくれました。この穴を埋めてくれる魔法はないものか、と思わないでもないのですが、可能性は過去ではなく未来に向けてこそ、でしたね。そんなわけで、今年の夏は久しぶりに、星を見に海へでも行ってみようかなぁ、などと思う次第。
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