【鉄血のオルフェンズ】1~4話までの考察 「生きるため」に戦う少年兵が世界の最底辺から見上げた大人たち

2015年の秋アニメとしてスタートした「ガンダム」の新作『鉄血のオルフェンズ』は、メカにムキムキの少年兵が乗り込み、火星の大地で砂煙を巻き上げながら鉄塊で殴る、という一風変わった路線で鮮烈な印象を与えてくれました。ただし、異質に感じるのは設定や雰囲気だけではありません。物語における構図とシビアで重たい題材こそが、そう感じさせているのではないかと。

最初の舞台となっているのは、地球からの独立の機運が高まる火星です。第1話の開始直後では「ああ、地球対火星の構図で独立戦争が起こって、主人公は火星サイドで戦うのだろうか」と思っていました。「ガンダム」といえば、宇宙移民と地球圏との戦争ですよね、と。もしくは、そういった正義と正義のぶつかりあう戦争に巻き込まれていくような物語なのだろうか、と。

しかし、そうではありませんでした。主人公たちが戦う目的や理由は、自治だの独立だのといった政治や思想を含んだものではなく、もっと単純で純粋なものです。

今日を生きるために戦う主人公・三日月

主人公の三日月・オーガスが戦いに身を置くのは「生きるため」です。大義のためでも理想のためでもなく、ただ「生きるため」なのです。

ガンダム 鉄血のオルフェンズ 三日月・オーガス

貧富の格差が広がった火星社会で犠牲となっているのは子供たちで、三日月もその1人。幼少時から銃を必要とするほど、過酷な環境で生きていることが描写されています。その後、少年兵として民間軍事会社に就いているのも、食うため生きるため。生きたいなら何も危険な軍事会社なんかに入らなくても…と思われるかもしれませんが、彼らを取り巻く環境は想像以上に苛烈なため、選択肢がないのでしょう。第4話のトウモロコシ畑でも、農業だけでは食べていけないことが語られています。

『オルフェンズ』の世界でモビルスーツやモビルワーカーを操縦するために使われている「阿頼耶識(アラヤシキ)システム」は、体内に機械を埋め込んでパイロットの脳神経を接続するものですが、その手術の成功率は60%ほど。そもそも成功しても前線送りになるだけなのだから「リスクしかない」。でも、そんな手術を3度も受けなければならないということは、それだけ三日月に選択肢がないということ。しかし、彼は命を安売りしているわけではありません。第2話では、ガンダムの搭乗前、クーデリアに「自分の命が大切ではないのですか?」と聞かれて「大切に決まってるでしょ」と答えていますからね。死地に赴くのも生きるためなのです。

生きるために全力な三日月ですが、何も自分の命だけが大事というわけではありません。境遇を同じくする者たちへの仲間意識が強く、仲間たちを必死で守ろうとします。これは三日月だけではなく、少年兵たちの共通項でもあります。たとえば、第1話の戦車戦では、三日月は前に出過ぎたダンジを助けるために敵陣へ突っ込んでいますが、そのダンジも敵モビルスーツが管制塔を攻撃したときには「そこには俺の仲間が!」と言って突撃し、命を落としています。生きるために危険な仕事に身を置いていても、仲間は命がけで守る。それが彼らの生き様です。

大義でも理想でもなく、生きるために戦う。このスタンスが、本作を「ガンダムっぽくない」とする声を生んでいるのかもしれません。大義のぶつかりあいではなく、そこに巻き込まれるわけでもなく、ただ生きるためというプリミティブな行動原理の主人公は、「ガンダム」作品においては異質かもしれません。(個人的には「ガンダムらしい」かどうかなんてどうでもよいのですけれども。) 大義も理想も腹が膨れてからでなければ語れないものでしょうから、本作ではより根源的なテーマを描こうとしているのだとすれば、非常に興味深いところです。

明日を生き延びるために引っ張る指揮官・オルガ

今を生きるために必死な少年兵たちをまとめているリーダーがオルガ・イツカ。三日月の相棒であり、兄貴分でもあり、カリスマ性のある指揮官といった印象の人物です。彼は少年兵たちを導くため、今日のことだけではなく、明日を見据えた戦略を考えています。今日を生きる少年兵たちを引っ張るのは、その一歩先、すなわち「明日」を見ているオルガなのです。(少年兵たちのブレインという意味では、参謀役のビスケットを含めていいかも)

彼が所属していた民間軍事会社を乗っ取るのは、己の野心のためではなく生き残るためです。この意味では三日月たちと変わりませんが、そこからの行動は将来性を見越したものになっています。第3話のクーデターでは、今まで酷い扱いをしてきた大人たちに恨みは返すものの、感情に任せて暴力に走るのではなく、会社の未来を考えて、真っ先に会計士を確保しています。ここは個人的に本作への好感度が一気に上がったポイントでもあります。

会社を存続させるのに必要なのはお金ですが、会社を存続させるのは生きるためです。なので、お金の仕事ができる人材を真っ先に確保したのです。生きることを主題とするなら、お金は避けて通れないテーマでしょう。また、オルガは去っていく者にはキッチリ退職金を支払って後腐れを断ち切り、会社の信頼に傷がつかないようにもしています。会社の信頼を気にするのは将来を見ているからこそ。その後、リスキーなクーデリア嬢の護衛任務を引き受けるのも、やはり将来を見据えてのことでした。

将来のことを考えているといっても、その目的はあくまでも食うため、生きるためです。だから、彼が見ているのは、あくまで目の前の現実です。オルガは、バラ色の将来設計を語るロマンチストではなく、今ここにある現実を直視したガチガチのリアリストなのです。

では、主人公サイドが子供のリアリストなら、彼らが戦いべき相手は誰なのか? 敵となるのはもちろん、その反対の者たちです。

少年兵たちの敵となるもの

生きるために戦う少年兵たちの敵となるのは、彼らを生み出した大人たちです。少年兵たちを生み出した社会構造そのもの、といっていいかもしれません。子供たちが目の前の現実を直視せざるをえないリアリストなら、大人たちは大義や理想に生きるロマンチストという構図なのかも。大義や理想の結果、生み出された子供たちに対してどう責任をとるのか、というのも、本作のテーマの1つではないかと。

大人の代表として三日月たちと対比になっていたのが、老練なパイロットのクランク・ゼント二尉。彼は大人として、同僚に子供を殺す汚名を着せないために、たった1人で少年兵たちのもとへ赴き、1対1の決闘を申し込みます。一見すると、正々堂々と戦う格好いいおっさんに見えますが、そうではありません。

クランク二尉は、自分は子供たちを救う立場だと考えていますが、決闘という自分のルールを押しつけ、勝敗の条件も勝手に決めており、三日月が勝った場合のことなど考えていません。そして、子供たちが自分の意思で戦っているはずがないと決めつけていますが、少年兵たちが自分の意思で戦っていることは、この後「鉄華団」を立ち上げることからも明らかです。三日月は意思決定をオルガに全権委任している節があるとはいえ、生きたいとか仲間を守りたいとかは、間違いなく彼自身の意思でしょう。要するに、彼は子供たちのことが見えておらず、見ようともしていません。現実を直視できていないわけです。

「大人の争いのために子供が犠牲になることはないんだ」は欺瞞の極地。三日月に「散々殺しといて…」とツッコまれているように、クランク二尉は自分の部下が犯した殺戮を他人事のように扱っています。これは少年兵たちの強い仲間意識と大人の都合のよさとの対比でしょう。そもそも、三日月が少年兵として戦いに身を置かなければならなくなったのは、大人たちが作った社会構造のためです。クランク二尉が直接の原因というわけではありませんが、社会の中で生きる大人である以上、無関係というわけでもありません。…自分で書いていて耳が痛くなりますが、本作はそのくらいシビアな題材を描こうとしているのかもしれません。

ある意味、この決闘は少年兵たちを生み出した社会構造そのものとの戦いであり、その縮図であるといえるかもしれません。子供たちを救う気持ちでいるクランク二尉ですが、少年兵の視点からすれば、自分たちを厳しい境遇に追いやった大人であることには変わりなく、さらには、勝手な都合を押し着せてくるわけですから、何の救いにもなっていません。パッと見は「ガンダム」作品における格好いいおっさんパイロットのような印象のクランク二尉ですが、本作においては大人の汚さの象徴のような役割を担っているのです。

最期に、クランク二尉は独断で行動した責任を抱えて死んでいきます。上官に逆らったとはいえ、立派な軍人として死んでいくのですが、生きるために戦う三日月にとって、職務のため、面子のためにに命を懸けて死ぬヤツのことなど理解できません。そもそも、責任をとるためにやるべきことは、死ぬことではなく生きて行動することのはず。上述のような子供への無理解や偽善の押し着せもあったため、礼も言わせずに引き金を引いたのです。三日月の無慈悲っぷりが際立つシーンでもありますが、そんな彼を生み出したのはクランク二尉のような大人たちなのですから、因果応報といえるのかも。

もう1人、三日月たちの敵として立ちはだかりそうなのがマクギリス・ファリド特務三佐。彼は世界を牛耳るギャラルホルンという武力組織において、監査官として組織を正す職務についています。つまり、この世界の正義の組織の中で正しさを貫く存在です。親の決めた9歳の許嫁を受け入れていることから、彼もまた、家柄や面子を大切にする人物のようです。しかし、彼の貫く正しさとは、この世界の社会構造によって規定された正しさであり、大人たちが生み出した正しさにすぎません。その正しさによって虐げられている少年兵たちにとっては、何が正しさか、となるでしょうから、このあたりも本作のテーマの1つになりそうな予感。

理想と現実の間を進むヒロイン・クーデリア

三日月たちと同じ子供でありながら、裕福な家庭に生まれ育ち、歪な社会に異を唱えて立ち上がったのがヒロインのクーデリア・藍那・バーンスタイン。彼女は理想を掲げながらも、少年兵たちのおかれた現実を目の当たりにして変わっていきます。理想と現実の間、つまり、子供たちと大人たちの中間的なポジションを担っています。また、彼女が世界について説明を受けていく過程は、学園モノにおける転校生のような役割でもあります。

第2話で過去の回想としてクーデリア嬢の演説が挟まれていますが、ここで彼女が語っているのは社会の犠牲になっている子供たちのことで、まさに三日月のような子供たちのための政策を求めています。しかし、彼女を担ぎ上げる大人たちは、そうではありません。第1話では、都会でのデモと閑散とした貧民街とが対比されていて、火星の利潤を求めて声をあげているのは食うのに困らない富裕層だと描写されています。ビキニ姿でプラカードを持つデモの様子に緊張感はなく、命のやり取りなどまったくありません。こうした裏で、今まさに命の危機に瀕している子供たちがいるわけですが、彼らを想うクーデリア嬢は、自分たちの利益を望むだけの大人たちに利用されてしまっています。ここは、青臭い理想を掲げる若者とそれを利用する汚い大人、という、よくある図式ですね。

彼女の理想は少年兵たちを救うものであるはずですが、実際的に目の前に直面する危機から救い出してくれるものではないため、ともに歩む同胞として受け入れてもらえません。しかし、クーデリア嬢は折れません。むしろ、少年兵たちと出会い、現実を直視することで成長していきます。彼女の成長は、現実を生きている三日月との歩み寄りによって描かれています。

まず、初対面のシーンでは、対等な立場をアピールするために手袋をとって握手を求めますが、これはクランク二尉と同じく自分の作法の押し付けと似ています。といっても、命にかかわるやり取りではなく、単に彼女にとっての当たり前がここでは通用しないというだけなのですが。ともあれ、三日月は彼女のことを同胞とは考えていないので、適当な理由をつけて握手を断っています。続く第2話では、ギャラルホルンとの戦闘で多くの犠牲者が出たことを「私のせい」と話すクーデリア嬢を三日月は強く拒絶します。死んだ少年兵たちは自分と仲間のために戦ったのであって、仲間ではないクーデリア嬢のために戦ったわけではないからです。

ここまでは三日月のクーデリア嬢に対する好感度は最低でしたが、第3話からはV字回復をみせます。クーデリア嬢はモビルスーツの操縦やメンテナンスはできないので、自分のできることで協力しようとします。まずは不得手な料理に協力したのですが、あまりうまくはできなかった様子。しかし、失敗した料理を自分で責任をもって食べると言い出したため、三日月は文句も言わずに食べます。彼女の乙女っぽさを描いたコミカルなシーンですが、無責任な大人たちと実際に責任をとろうとするクーデリア嬢との対比にもなっています。

そして三日月からの好感度が一気に跳ね上がるのが、クランク二尉との決闘前のシーン。相手の目的が自分だと知っているクーデリア嬢は、少年兵たちを守るために自らの身を差し出そうとしました。それも「ただ死ぬつもりはありません」とも語っており、彼女が命懸けでありながらも、生きようとしていることもうかがえます。仲間のために、生きるために命を張れるのであれば、三日月たちと何ら変わりはありません。第4話の冒頭でこのシーンを嬉しそうに回想する三日月は、クーデリア嬢を仲間と認めたからでしょう。

トウモロコシ畑でクーデリア嬢の手をとる三日月は、初対面で握手を断ったシーンとの対比。かつては手袋をはずしても断られていたのに、手袋をしたままでも手をとってくれたのは、ともに生きようとする仲間になれたからこそ。料理も農作業も生きるために必要なことです。ここでは資金提供という形でも少年兵たちを救ったことに感謝されていますが、クーデリア嬢にとっては自分のお金ではないし、あまり綺麗なお金でもなさそうなので、かなり複雑な表情。しかし、第3話でナットを拾い上げて汚れた手のように、少年兵たちを取り巻く現実が綺麗事だけでは解決しないとも理解しているはず。今日食べる飯がなければ将来の理想もへったくれもありませんからね。綺麗事よりも実利のある行動が必要とされているのです。

極めてシビアな「現実」を突きつける『オルフェンズ』

『鉄血のオルフェンズ』における物語の構図は、厳しい現実に直面した子供たちが、その厳しい現実を作り出している大人たちに対して、生きるために戦う、というものです。第4話の時点では、まだギャラルホルン以外の地球圏の描写がありませんから、火星と地球との大人の戦いに巻き込まれる子供たち、という図式にも発展するかもしれません。いずれにしても、生きることを第一に考えるしかない厳しい境遇におかれた子供たちが主人公、というのは注目すべきポイントでしょう。

繰り返しになりますが、貧困の中で生きようとする子供たちと敵対するのは、その子供たちを生み出した大人であり、大人が作り出した社会構造そのものです。この戦いがどこに向かうのか、どこへ着地させるのかは、本作における最大のポイントといっていいかもしれません。

「現実」という言葉を何度も使いましたが、実際にボクたちの生きているこの世界でも、三日月たちの置かれているような厳しい現実は存在しています。紛争地帯における子供たちは、生まれながらにして銃を取って戦うか、黙って死ぬかの2択に晒されています。ちなみに、トウモロコシがバイオ燃料として使われるのも現実です。バイオ燃料の問題は買い叩かれることではなく、農耕地がバイオ燃料用に占有されることで食糧用の収穫が減って高騰することですが、結果的に食べるのに困る人々を生み出している点では同じです。

生まれた国が違うだけで、天国か地獄かというほどの格差があるのは、まさに現実に他なりません。そして、運よく裕福な日本という国に生まれ育ったボクが、三日月のような子供たちのことを直視できているかといえば……。そう考えると、本作は極めてシビアで重たいテーマを投げかけているのかもしれません。子供の視点から大人の欺瞞を暴くであろう本作を、大人の視点で観るのは大変つらいことになりそうですが、それでも、だからこそ、『オルフェンズ』という「現実」を直視しなければならないのかもしれません。

第1話の時点では、「質量を上げて物理で殴る!やったーカッコイイ!!」とか言っていたのですが、それとは比べ物にならないほど重たい題材で殴られるとは予想していませんでした。ボクは本作を最後まで直視していられるだろうか…。

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